隅田 昭のエンタメーゼ

穂高健一氏スペシャルインタビュー ①作家になるまで

隅:隅田昭
穂:穂高健一氏


隅:今回は葛飾鎌倉図書館でのご講演、お疲れ様でした。
ご講演でもお話されていましたように、先生は広島県出身で、離島のご出身でしたね。

穂:ありがとう。そうです。
大崎上島という、橋のない離島ですよ。風光明媚が取り得かな。
港町でしたから、中学生時代は住いの近くに貸本屋があり、小遣いをほとんどつぎ込み、大衆小説(山手樹一郎、柴田錬三郎、富田常雄、池波正太郎など)を片っ端から読んでいました。
思春期ですから、性描写が出るとわくわくしました。
新刊本が待ち遠しかったです。
これが作家になる土壌になったのでしょう。


隅:学生時代の思い出をお教えいただけますか。

穂:大学時代は登山一辺倒で、北アルプスに4シーズン登っていました。
滑落、落石で、3度は死に目に遭いました。
「この場で死ぬんだな。寂しいな」という焦燥感に襲われた経験があります。
五十代で、八ヶ岳の硫黄岳の噴火口(休火山)に落ちて、標高差190メートル滑落しました。
この間は数秒があり、「どんな遺体になっているんだろうな」と思いました。
真冬だったから、ピッケルで止めましたけど、夏場だと岩盤で即死でした。
ただ、顏は雪面の摩擦熱で、火傷を追いましたけど。


隅:よろしければ、奥様との馴れ初めなども。

穂:中央大学の経済ゼミと、大妻女子大学との交流・合コンで、妻たちと知り合いました。
3年ほど、交際して結婚しました。
恥ずかしいので、このあたりでご勘弁を。


隅:卒業後は、就職されたのですか。

穂:ええ、社会人の最初の仕事は、鉄鋼を扱う商事会社でした。


隅:作家を目指した、キッカケを教えていただけますか。

穂:28歳で大病したので、病床で小説の習作をはじめました。
数年後、「講談社フェーマススクール」の小説養成講座の募集を目にして、「伊藤桂一教室」に通いはじめました。
約4年くらいでしたかね。
同講座がおわっても、同人誌「グループ桂」を立ち上げて、伊藤氏には作品を見ていただきました。


隅:その頃、伊藤氏の指導はいかがでしたか。

穂:伊藤氏の小説批評は厳しかったです。
「原稿用紙は何も書かなければ、1枚3円。
100枚文字を書けばトイレットペーパー一つの交換にもならない」
という酷評は強烈に印象に残っています。レベルが上がるほど、厳しかった。
それにも負けず、這いあがってきた感じです。


隅:そうですか。私なら、とても耐えられる自信がありません・・・。

穂:「10年毎日書けば作家になれる」それを信じたけれど、純文学にこだわっていました。
だから、20年間も書きつづけても、文学賞の受賞ひとつもなかった。
家庭内では肩身が狭かったですよ。(笑)



隅:作家と呼ばれるまでには、細くて険しい道を登る必要があったのですね。

穂:習作から25年経って、「第42回地上文学賞」で受賞した時は、とても嬉しかった。
家族に顔向けができる。『作家』という肩書が使えると歓びもひとしおでした。
そこから受賞癖がついて、1-2年に一度は文学賞の受賞や入賞が続きました。
最終候補作になって賞を逃したのは2作品だけです。受賞のコツがわかったのです。
書き出しは力強さで引き込む、どんな名作でも、途中の中だるみがありますから、あまり気にしない、最後の数行の『結末勝負』でした。
だから、候補の電話連絡などが来ると、賞金はいくらかな、と皮算用しました。
授賞式の晴れやかな薔薇のリボンはみな保管しています。


⇒②作品に対するこだわり

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