隅田 昭のエンタメーゼ

穂高健一氏執筆中の歴史小説の取材が信濃毎日新聞に掲載されました


2015年7月2日に、穂高健一氏が執筆中の「山の日」に関連する
歴史小説の取材が信濃毎日新聞に掲載されました。

記事の内容は、以下の通りです。




東京都葛飾区の作家、穂高健一さんが、江戸末期の北アルプス上高地(現在の長野県安曇野市)や、
上高地を超えた松本藩と岐阜県側の飛騨を結んだ「飛州新道」をテーマに、歴史小説を執筆している。


最初の国民の祝日を迎える来年8月11日、上高地で山の日制定を祝う全国大会が開かれることから
穂高さんはこの時期をめどに出版し、山の日を盛り上げたいと考えている。


※略歴⇒ 詳しくは「ウィキペディア」を参照


江戸時代、上高地一帯は松本藩領で、切り出した材木は藩の大きな収入源だった。
調べた資料によると、当時幕府領だった飛騨と松本側を結ぶ道は野麦峠しかなく、遠回りだった。
そこで松本市梓川の庄屋の岩岡氏が、松本と飛騨を直接結ぶ新道を造ろうと考えたという。
岩岡家は上高地で温泉宿を開き、4代にわたって新道の開通と維持に力を尽くした。


穂高さんは、この温泉宿で過ごした岩岡家の娘を主人公に据えた。
物語は1816年(文化13)年、現在の松本・安曇野市に
農業用水路「捨ケ堰(じっかせき)」を作るころから始め、
飛州新道の建設、そして新道が閉鎖され、娘が上高地を後にするまでを描くという。


穂高さんが調べたところ、捨ケ堰で安曇野に新田が開かれ、コメの収穫量が増えて米価が下落した。
農民は新道を使って飛騨側にコメを売り、北陸の海産物を仕入れることを目指し、
岩岡らが飛騨側に新道建設への協力を呼び掛けた。


飛騨側では、大規模な一揆が起きるほどコメが不足しがちで、最終的に工事に協力したという。
穂高さんは「飛騨側を取材し、飛州新道が飛騨の民を救うためにも必要だったことが理解できた。
歴史を複眼的に見る面白さを感じた」と話す。


資料提供するなど、穂高さんに協力している松本市在住の山小屋経営者は、
「近代登山が始まる以前の地元の歴史や、山の生活が発信される貴重な機会になる」と
出版の日を楽しみにしている。


(レイアウトの都合により、一部内容を改変しています)


次の長編小説が、今から待ち遠しいですね。
北陸新幹線の開業により、京都や飛騨まで足を伸ばす観光客も増えていると聞きます。
山の日の行事がテレビやネットに取り上げられたら、きっと大きな注目を浴びるでしょう。



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