隅田 昭のエンタメーゼ

上野公園は人種のるつぼ

穏やかな春の陽気に誘われ、我が家から上野公園まで向かった。


今年はいつもの年よりも、格別な想いがする。
なぜなら小説講座を受講して、初めての取材を兼ねた桜を目にしたからだ。


以前、シナリオスクールに通っていた時にも、仲間と花見をしたことはある。
ただ、その頃は桜の映像ばかり目に焼きつけて、印象に残るシーンを探してばかりいた。


今回は穂高先生から度々指摘されるように、視界に広がる華やかな風景ばかりでなく、
自分の心に向き合い、花見に来ている人々が、何を考えて訪れたのかと想像しながら歩く。




前回、上野公園を訪れたのは、東日本大震災から3週間過ぎた3月末の土曜日だった。


その頃は、当時働いていた職場でも夏の暑い時期を前に、シフト制で指示された出勤が続き、
この国はどうなるのだろうと不安になり、報道で毎日流れる避難住民の方々の現状を目にするたび、
それを自身の家庭事情にも重ねあわせ、辛い時間を過ごしていた。


その時ふと、子供の頃に学校や学習塾で切ないことがあると、きまって母や友人と遊びに出かけた、
懐かしい上野公園まで、数年ぶりに桜を見ようと思いたったのだ。


当時の職場では、花見や宴会などの自粛が通達されており、同僚を誘う訳にもいかず、
仕方なく、ひとりで午後8時過ぎに公園まで進むと、園内はどこも暗闇に包まれ、
仕事帰りのサラリーマンや若いカップルが、まばらに並んで歩いている程度だった。


近くの大型電気店まで戻り、非常用で店頭に山積みされた懐中電灯を購入し、
隣接したコンビニで、おにぎり二つと暖かい緑茶を買い、レジ袋に入れて園内を巡ることにした。
途中、懐中電灯で桜を照らすと、暗黒に淡いピンクの花弁が浮かび、凛とした輝きを放っている。
それは新鮮な驚きに満ちており、日常生活の雑念をひと時のあいだ忘れることができた。


考えてみれば日没後も、電気を使い捨てするようになったのは、近代文明が入ってからだ。
桜は人間などお構いなく、毎年花を咲かせ、散ったあとも翌年の準備を着々と進めているのだろう。


園内をひと回りして冷たいベンチに座り、懐中電灯の明るさを頼りにおにぎりで空腹を満たすうち、
不意に津波の映像が頭を巡り、亡くなった方も桜の開花を楽しみに待っていたはずだと思ったとき、
生きている日々に感謝し、自分はこれから何ができるだろうかと、改めて考えるきっかけになった。


あれから4年経つが、被災者の方々は桜に対して、どのような想いを抱いておられるだろうか。
近いうちに宮城まで出掛ける予定もあるので、機会があれば地元の方に伺ってみたい。




今年の上野公園は、時刻の違いはあれど、震災当時とまったく印象が異っていた。
大声で笑う見物客や、多くの外国人観光客であふれ返り、様々な言語が飛び交っている。
国は官民一体となって、観光立国を猛アピールしている真っ最中だが、
この場所ではひと足早く、それが実現できているように思えた。


来年の花見や5年後に迫った東京五輪も、今から楽しみで待ち遠しいが、
大震災で味わった数々の教訓、今も続く被災者の想い、それに原発事故を忘れることなく、
生きている喜びを胸に、後世に伝えていくのが、私たちに与えられた使命ではなかろうか。



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