隅田 昭のエンタメーゼ

穂高健一氏スペシャルインタビュー ③作品に係るエピソード

隅:隅田昭
穂:穂高健一氏


隅:先生は坂本龍馬も書かれていましたね。龍馬は僕も昔から大好きです。
ぜひ、こぼれ話をお伺いしたいのですが。

穂:坂本龍馬を雑誌に連載していた時です。
龍馬が乗った、蒸気船のいろは丸(処女航海)が紀州藩の大型軍艦と衝突し、沈没した。
「いろは丸事件」として長崎奉行で審議された。
龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎が金塊と最新銃が積荷だと言い、8万3000両取った。
実質7000両支払われた。
京都の学者を訪ねて、いろは丸の潜水調査資料を見せてもらった。
沈没船には、船員の持物のガラクタだけだった。
土佐藩士たちは嘘と張ったり。まさに、龍馬の作られた虚像が剥がれたと思いました。
と同時に、岩崎弥太郎たちが膨大な金を何に使ったか。およその見当がつきますよね。


隅:う~ん、映画やドラマなどを鵜呑みにしてはいけない。事実は地球より重いですね。
その先は、酒宴の席でじっくりお伺いするとして、次に「千年杉」のエピソードを教えてください。

穂:選考委員会で、平岩弓枝さんが『「千年杉」の方がいいわよ、それならば受賞作として、私も一票を入れます』と言われたそうです。
私がそれを受けて、選者の満場一致になりました。


隅:タイトルも短く、ストレートに伝わる方がベターというアドバイスですか。勉強になります。
先生は東日本大震災をテーマに、「小説3.11 海は憎まず」を書かれていますね。
僕もあの日は寒空の下、当時いた会社から自宅まで、6時間以上かけて歩きました。

穂:そうですか。当時は日本中が、大変な苦労をしましたね。
私は岩手・宮城に17回行きました。
被災地のひとたちに接し、「小説は心の奥底を描くもの、新聞と違い、小説は後世のひとたちにも読まれます」と理解を求めて、辛い心境を語ってもらいました。
雪降るガレキの側で、泣きながら話してくれた人も随分いました。
警察署長も、学校長も、地方紙の記者も、瞬時の判断の難しさなども赤裸々に語ってくれました。
必ず後世に伝えるぞ、という意気込みで執筆しました。


隅:もう4年近く経ちますが、風化させてはならないですね。
被災地の方はいまも心身面では傷が残っています。
災害列島に住んでいますから、自分がいつ被災するかも分からないですし、3.11を教訓とした心構えが大切です。
最後に「二十歳の災」で、新事実を発見した時の心境をお聞かせください。

穂:明治政府は故意に芸州広島藩の歴史資料を封印していた。
その上、広島は原爆で史料がなくなっていた。
どこに取材に行っても、空しかった。もはや幕末の広島藩を描くのは絶望的だった。
藩校・学問所が修道学園に受け継がれており、原爆投下前に、学校疎開をしていた。
同学園を訪ねて、頼山陽など膨大な資料を目にしたと、やったぞ、と嬉しかった。
不思議ですね、そうするうちに、昭和53年に300部発刊された浅野家の『藝藩志』に巡り合った。
より忠実に描けば、幕末史の通説がくつがえせる、と強い確信を持ちました。


隅:本日はお忙しいところ、貴重なお話を聞かせていただき、ありがとうございました。
このインタビューは、ウィキペディア(Wikipedia)にも投稿させていただきます。
これからも引き続き、叱咤激励をお願いします。

穂:こちらこそ、今日はありがとう。
小説の創作はTVを観て書くのではなく、たくさんの「資料」を集めるのが重要です。
特に歴史小説は郷土史家などから意見を聴いたり、学術論文を読みこんだりする。
執筆する上で、採用する、あるいは捨てる。
それを肝に銘じて、今後も一層の精進を重ねてください。


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